高松一高野球部誕生秘話 その2

「高松一高野球部誕生秘話2~札幌からの手紙~」
ホームページ掲載に当たって

平成27年11月末、北海道への旅の途中。戦後の学制改革による高松一高の第一期卒業生(昭和24年3月卒)で、札幌市在住の中山恒雄先輩に連絡するも、病気療養中で、面会も無理な状況でした。そして、残念ながら間もなく先輩はご逝去されました。

中山先輩とは、同年7月から、戦後再開した高松一高野球部の状況をまとめるため、手紙や電話でやり取りをしていました。この手紙は、図らずも先輩の野球部への遺言のようになってしました。

この度、中山先輩の三回忌も近づき、当時の野球部の様子を伝え、先輩の母校野球部への思いが込められた、「札幌からの手紙」をOB会のホームページに公開することにしました。

野球部OB並びに関係者の皆様に、ご一読いただければ幸いです。

平成29年9月 昭和47年卒 伊藤良春

高松一高野球部誕生秘話 その2

― 札 幌 か ら の 手 紙―

昭和20年3月の東京大空襲に始まった、日本本土への空爆は、やがて高松へも大きな災禍をもたらした。7月4日未明の2時間近くに及んだお空襲で、旧市街地の8割が焼失。1359人が命を失い、約8万6400人が被災した(注4)。高松市中心部はほとんど焼かれ、形を残す建物は、三越と旧百十四銀行本店だけだった。栗林公園北口からは、高松築港と、その向こうには焦土となった市街地とは対照的な美しい瀬戸内海が見渡せたと言う。
 同年8月15日、終戦を迎える。その時、市の中心部から離れていたことが幸いしたのか、旧制高松一中は奇跡的に難を逃れ、校舎も校庭も無事だった。(注5
 そして、翌21年7月25日〜27日、この髙松一中の校庭で、県下8校が参加して、第28回全国中等学校優勝野球大会香川県予選が開催された。このグランドに、この大会の高松一中の戦いぶりを見つめる若き日の中山恒雄先輩が居た。
 戦後70年、また高校野球誕生100年の節目の年に、札幌市在住の中山恒雄先輩から、当時のことを鮮やかに描いた温かい手紙をいただいた。
平成27年7月

前略、貴君より貴重な資料他(香川県高校野球戦後の記録、髙松一高野球部誕生秘話)を送付いただき、心より感謝いたします。懐かしい資料を読みながら、昔日の思い出をめぐらせる日々を改めて楽しめることは、大変有難いことと思っています。

髙松一中野球部への入部

 小生は、昭和20年初めに神戸より高松、長尾に疎開し、旧制高松一中に入りました。当時は疎開者や戦後の引揚者の殆どが、市立一中に転入してきていました。
 野球部に入部したのは、昭和21年の夏の大会が一中校庭で開催され、髙松商業がコールド勝ち、一中は小豆島中に惜敗したのを見て後、このチームに入れてもらったら選手になれるかもしれないと感じたからです。小生は、神戸時代、父に連れられ甲子園の中学野球を何度か観戦した経験もあって、父には内密に入部手続きをしました。当時は、山谷投手、柏野捕手のバッテリーでした。柏野さんは、捕手として面だけを使用し、胸当て、レガースなど無いため、危ないなあと思って観たことを思い出します。

六車善彦先輩の活躍

 余談ですが、このメンバーの一人、六車善彦先輩は、徳島大学を卒業後、北海道にわたり、中学、高校の教員として活躍していました。小生が会社の北海道営業所に赴任した後、縁あって再会しました。先輩は高校野球の監督をされていて、昭和41年第38回選抜高校野球で、甲子園へ室蘭工業高校の監督として出場しています。その後北海道高校野球の審判制度改革などをリードされ、北海道高校野球界に多大に貢献され、こちらでは有名人でした。最後は小樽工業高校の監督・部長を兼任し、定年退職し、香川県大内町に帰られました。

大恩ある上春(24年卒、チームメート)の父君

 小生の入部以降、上春の父君は毎日練習を見学に来られ、監督不在の状況を心配され、高中、高商の先輩を監督として紹介してくれ、最後は桝形さんを連れてこられて、髙松一高野球部の基礎を作っていただいた大恩人です。
 昭和22年の夏の大会が終わったあと、小生は念願の高等商船学校の受験準備にとりかかっていたところ、上春の父君から、このチームは新制高校第一期のタイミングで、甲子園出場も夢ではないので、どうしても残って野球を続けてくれと説得され、受験を断念したのも懐かしい思い出です。

髙松一中・一高が指導を受けた名選手たち

 その事もあって、父君はますますのめり込まれて、春季優勝(県大会)をみて、夏の大会前に早大から宮原捕手を招かれ、毎日しごかれました。また、たまたま高松に遠征してきていた、早大野球部の当時の蔭山和夫、石井藤吉郎、荒川宗一という名選手を呼ばれ、練習をみてもらったことなど、父君には本当にお世話になりました。
 その他にも、当時社会人チームの四国鉄道と試合をさせてもらい、一勝一敗の成績を残したのも自信につながった思い出です。
 その際、同チームには、後日巨人軍の遊撃手となった平井三郎さんがいて、技術的なコーチをしていただきました。平井さんには、何年間も冬休みに指導して頂き、守備の基本をしっかり教わりました。そのことが私たちの野球の礎となりました。また、相手のタッチをかわす巧みなスライディング技術は卓越しており、とても真似のできるものではありませんでした。

先進的な野球理論を学ぶ

 私たちチームメートは、野球に関する勉強にも取り組みました。鈴木惣太郎氏(注6)の分厚い野球理論書や米国からの資料を取り寄せ、勉強し練習にも活用して頑張った時代です。
 後の巨人軍の9連覇の際に取り入れられたドジャース戦法等についても、野球のルールとともに勉強していました。

桝形監督の功績

 最後に特筆しておかなければならないのは、桝形さんのことです。桝形さんは、練習の際に単にバッティング投手だけではもの足らず、桝形さん自身、一日中バッティングピッチャーとして、抜群のコントロールで直球は勿論、曲球の球種を投げ分けて、私たちの打撃向上に多大な努力をしていただきました。我が一高の打撃技術が目立っていたのは、その基礎を築いていただいた桝形氏のコントロールの良いバッティング投手のお蔭であるといっても過言ではないと思います。

香川県、髙松一高の野球の向上を期待する

 長い文となりましたが、当時を思い出すと、多くのことが思い浮かび、小生の人生の一部になっていることに感謝の心しかありません。

 しかし、最近の香川県の高校野球の低調ぶりは残念でなりません。是非、髙松一高が先駆けとなって、香川県の野球の向上に寄与してもらいたいと期待するのみです。
 貴君へのお礼の手紙のつもりが、長文乱筆になり申し訳ありません。どうか、OBは勿論、現役の皆様のますますのご健康とご活躍を祈念しています。


 中山 恒雄(なかやまつねお) 略歴

・昭和24年3月 新制高松一高卒業(第1期生)
・一高では、上春三郎と中西(三井)頼雄がチームメート。
・早稲田大学中退、琴電入社、昭和26年四国代表として都市対抗野球に出場、その後日本鋼管野球部に移籍。
・現在、北海道札幌市在住。


注4:
香川の戦後70年「第3部・戦火の記憶」(四国新聞平成27年8月11日より)
注5:
終戦から2週間後の昭和20年9月1日より授業を再開。(髙松一高創立40周年記念誌より)
注6:
アメリカ野球の全般にわたり実地に研究を重ね、その豊富な知識によりわが国球界を指導した。大リーグの招聘に努力。更にプロ野球設立に尽し、プロ野球界の要職を歴任した。(野球殿堂博物館顕彰文より)(文責:伊藤)

PAGE TOP